
災害と闘い続けた村人たちの挑戦と、50年の歳月をかけて洪水を防いだ中甚兵衛の想い。その取り組みを通じて感じた、志の力と地域を守る大切さをお伝えします。
目次
豪雨被害から復興した柏原村
かつて、大和川の氾濫により甚大な被害を受けた村がありました。その村は、現在の大阪府柏原市。繰り返される洪水によって田畑は荒廃し、村人たちは復興に向けて数々の試練に立ち向かうこととなります。
復興のために活用されたのが「柏原船(かしはらぶね)」です。平野川を利用して柏原村と大阪を結び、農作物や肥料を運搬する川船として重要な役割を果たしました。柏原船の利益は村の再建資金となり、復興を後押ししました。
柏原市太平寺には、当時の商家の建物が今も残っています。江戸時代後期に建てられた三田家住宅(重要文化財)や寺田家住宅(登録有形文化財)は、柏原船の運航に深く関わった歴史的な町家です。平野川沿いに佇むこれらの建物は、往時の賑わいと復興の歩みを静かに物語っています。


柏原船の苦難と再興
柏原船の運航は順調な時期もありましたが、利益の偏りや新たな問題も発生しました。一部の船仲間だけが恩恵を受け、肝心の村の復興が遅れることも。最終的には大阪の商人にも運航を許可し、資金を広く集めることで再興を果たしました。
現在、柏原船の船だまり跡地は児童公園として整備され、村の復興を支えたこの歴史が静かに残されています。


大和川付け替えに尽力した中甚兵衛の志
洪水の被害を根本から解決しようと立ち上がった人物がいました。それが中甚兵衛(なか じんべえ)です。彼は「大和川の流れを変えるしかない」と考え、50年近くの歳月をかけて大和川付け替え工事を推進しました。
甚兵衛は幼少期から洪水被害の話を聞いて育ち、14歳の時には自らも堤防決壊の恐怖を経験しました。2人の子供たちに同じ苦しみを味わわせたくないという思いが、彼を突き動かしました。
幾多の困難と諦めない心
川の付け替えには強い反対もありました。先祖代々の土地を失うことを恐れ、自ら命を絶つ人もいたほどです。しかし、度重なる洪水と村人の苦しみを目の当たりにした甚兵衛は諦めませんでした。
1701年には連続して大水害が発生し、ついに幕府も大和川の付け替えを決断。1703年、甚兵衛が65歳の時、ついに工事が開始されました。工事は成功し、大和川は真っ直ぐ大阪湾へと流れるようになります。これにより、河内平野の洪水被害は大幅に減少し、農作物の安定した収穫が可能となりました。

恩恵と影の部分
付け替えにより新たな農地が開発され、「河内木綿」の栽培など地域経済も活性化しました。しかし、古くからの土地を失った人々の中には、新しい土地での生活がうまくいかず、困難を抱えた人もいました。
甚兵衛は、村の繁栄の陰で犠牲となった人々の存在に心を痛め、付け替え完了の翌年、67歳で出家しました。村人の幸せを祈り続けたその姿勢は、今も人々の記憶に残っています。
未来への教訓 〜志が未来を切り拓く〜
柏原村の復興と中甚兵衛の大和川付け替えの物語は、災害に立ち向かう人々の強い意志と、困難を乗り越えるための「志」の力を教えてくれました。村の再興を願った先人たちの行動は、時間がかかろうとも、簡単には諦めない心が未来を切り拓くことを証明したのだと感じます。
中甚兵衛は、ただ自分や家族のためではなく、「次の世代に同じ苦しみを味わわせたくない」という強い願いを持ち続けました。その志こそが、反対や困難を乗り越え、村を守るという大きな成果へと繋がったのですね。
復興の過程には多くの葛藤や犠牲が伴いましたが、地域を守るための一人ひとりの想いが積み重なり、今の街並みや暮らしがあります。災害の多い現代においても、「誰かのために」という願望や志が、人や地域を支える原動力になることを、改めて気づかせてくれました。
投稿者プロフィール

-
ランチェスター顧客維持戦略「内勤営業育成講座」講師
インサイド営業・内勤営業育成コンサルタント
脳科学のプログラム「メンタルラボ」認定講師
自己成長のプログラム「宝物ファイル」認定講師
出身:島根県安来市、高校時代バレーボールで国体出場
趣味:古い街並み巡り♪
大阪商工会議所各支部、組合•団体、企業にてパソコン講座の講師を5年経験。
コンテンツ制作を担当したHPがNCネットワークのHPコンテストで最優秀賞を受賞。
2018年より内勤者がお客様づくりの仕組みをつくり営業を支援する「内勤営業育成講座:全10回講座」を企画開講し現在も継続中。
高槻商工会議所様、大阪産業創造館様、大阪労働協会 osakaしごとフィールド様、一般社団法人 住生活リフォーム推進協会(HORP)様にて研修を担当
内勤営業育成コンサルタント 藤原 紀子