その昔、大和川が繰り返し氾濫し、
甚大な被害に見舞われた村がありました。
こんにちは。
1位づくり戦略 NNAの藤原です。
近隣に古い町並みが残る地域はないか
ネットで検索すると、
大阪にたくさんのスポットがありました。
その中から、
平野川を利用して
河内国柏原村と大坂を結んだ
川船「柏原船(かしはらぶね)」の
運航に携わった商家の建物が残る。
という情報を得て、
大阪府柏原市太平寺へ行ってきました。
前回は、ここ柏原市で見つけた
穴場スポットをご紹介しました。
商家の建物を探して歩き続けると、
旧奈良街道と三田家住宅(重要文化財)の
案内板がありました。
旧奈良街道に重要文化財!
期待が膨らみます。
街道に面して、いくつか町屋が残っていました。
途中、お肉屋さんで場所をお聞きし、
更に歩いていくと、、、
三田家住宅に到着!!

三田家住宅
三田家住宅は江戸時代後期の町家で
肥料問屋や柏原船の運航を行い
栄えたそうです。
住宅の裏にまわってみると、
了意川(りょういがわ:平野川)がありました。

柏原船の運航に利用された平野川
石垣が風情を感じます。
川へ降りていく階段が残っていました。
この川を使い、大阪と柏原との間で
農作物や肥料を運搬した柏原船
その積荷を、そのまま荷揚げできるように
作られていたのですね。
もう1件、寺田家住宅がありました。
登録有形文化財に指定されていました。

寺田家住宅
寺田屋住宅は、江戸時代中頃に建てられ、
油粕問屋や柏原船の営業を行っていたとのこと。
ここ柏原のあたりは、
常に大和川氾濫の危機にさらされ
田畑を埋め尽くすような甚大な被害を
受けたそうです。
近年、大雨や洪水、土砂災害など
様々な自然災害が多発しています。
各地の被害状況と
当時の村の様子が重なります。
現在は、公共事業で復興に取り組んだり、
災害復興支援策などもあります。
それでも、復興することは、
簡単なことではありません。
村人の力だけでは復旧出来ない程、
荒廃した村
柏原船を運航し、その利益を
村の復興に役立てようと
考えたそうです。
しかし、柏原村は幕府領
幕府が運航許可を出さず、
13年後に再び起こった大洪水
そこから、ようやく計画が進み
3年後に運航を始めたそうです。
柏原船の営業は順調に進み
運賃収入も予想を上回る程
そこに、またもや問題発生。
船仲間ばかりが利益を得て、
本来の目的である村の復興が
一向に進展しなかったのです。
新たに大坂の商人にも船を持たせ
営業させたりしたそうです。
そうしたこともありながら、
柏原村はその後再興を果たしました。

柏原船 船だまり跡地
柏原船 船だまり跡地は、現在、
児童公園になっていました。
柏原船の運航も、村の復興も
簡単には進まなかったようですが、
いくら時間がかかっても、
困難なことにぶつかっても
やり遂げた先人の努力や工夫があって
今があるのだとしみじみ感じました。